101年前のエベレストの天気を再現。『そこに山があるから』……名言を残したマロリーは果たしてエベレスト頂上に辿り着いたのか?
エベレストの雄姿皆様、山岳防災気象予報士の大矢です。今回のテーマは、『そこに山があるから』という、かの有名な名言を残したジョージ・マロリーについてです。マロリーは1924年にエベレストの初登頂をめざしたものの、山頂付近で遭難して帰らぬ人となっています。果たしてエベレスト頂上にたどり着いたのか? については現在でも議論となっていますが、これについて考察してみたいと思います。 エベレスト初登頂の公式記録はイギリスのエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによってなされた1953年5月29日です。しかし、その29年前の1924年6月8日にジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンが初登頂を果たしていたのかもしれないという可能性がいまだに残っています。これは世界の登山史上で最大の謎のひとつであることは間違いありません。 そこで、NOAA(アメリカ海洋大気庁)による再解析データを使って101年前のエベレストの気象状況を再現し、山岳気象の観点からその謎に迫ってみたいと思います。エベレスト初登頂の登山史を振り返る世界最高峰のエベレスト(標高8848m)は、ネパールと中国の国境にあって、英名はエベレスト、ネパール名はサガルマータ、中国名はチョモランマと呼ばれています。北極や南極の初制覇で後れを取ったイギリスは、エベレストを「第3の極地」として、大英帝国の威信をかけて1920年代から遠征隊を結成し初登頂をめざしていました。 ネパールが鎖国を解く1949年までは、エベレストはチベット(中国)からしかアタックできませんでした。1921年のイギリスの第1次遠征隊はチベットから入山し、北稜のノースコル(7020m)までのルートを確認しました。1922年の第2次遠征隊は北稜ルートを登り、北東稜の手前の標高8321mという当時の最高到達高度まで辿り着きましたが、悪天候や雪崩事故が発生したために登頂を断念しています。今回の記事の主人公であるジョージ・マロリーは,この第1次、第2次の両方に参加しています。 1924年の第3次遠征隊では、マロリー(当時37歳)はアンドリュー・アーヴィン(同22歳)とともに北稜ルートから北東稜に取り付いてエベレスト初登頂をめざしました。しかし頂上アタック中に2人は消息不明となり、エベレスト山中に姿を消してしまいました。 国民的ヒーローとなっていたマロリーの遭難は、当時のイギリス中に大きな衝撃を与えました。その後もイギリスは1938年の第7次遠征隊まで派遣しましたが、エベレスト初登頂を果たすことはできませんでした。 第二次世界大戦後の1949年以降は、チベット側は中国の支配下に置かれて閉鎖され、代わってネパール側からの入山が可能になり、イギリスだけでなく各国の登山隊がエベレストの初登頂を争うことになりました。 ウェスタン・クウムのアイスフォールの難所から、現在のメインルートとなっている南東稜からの登山ルートを開拓した後、1953年5月29日についにイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが初登頂の栄誉に浴することになりました。なお、チベット側からは中国隊が1960年5月25日に北稜ルートによる初登頂に成功しています。 日本人による初登頂は1970年の日本隊の松浦輝夫と植村直己によって成し遂げられ、1975年には日本女子登山隊の田部井淳子が、女性として世界で初めてエベレストに登頂したのはご存じの方も多いと思います。