「八甲田雪中行軍」大隊長・山口少佐の遺品寄贈 ひ孫、青森市の遭難資料館に 勲章、肖像画など8点
山口さんから資料館に寄贈された山口少佐の肖像画と勲章 1902(明治35)年1月に八甲田山中で発生した旧陸軍による雪中行軍遭難事件で、行軍隊の大隊長だった山口鋠(しん)少佐のひ孫に当たる山口宏之さん(72)=神奈川県藤沢市=が8日、青森市幸畑の遭難資料館に勲章など山口少佐の遺品を寄贈した。山口さんは「私が持っているよりも資料館に展示して多くの人に見てもらった方が曽祖父も喜ぶ」と語った。 寄贈したのは功五級金鵄勲章や勲五等瑞宝章、正装をまとった山口少佐の肖像画など8点。曽祖父から代々受け継ぎ、保管してきたという。 同館の展示によると、1902年1月31日に救助された山口少佐は2月1日に病院に収容されたが、翌2日に死亡した。軍が発表した死因は「心臓麻痺(まひ)」。 一方で、事件を題材にした新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」や同作を原作にした映画「八甲田山」では、行軍隊を遭難させた責任を取ってピストル自殺したという描写も。軍が責任追及から逃れるために指揮官だった山口少佐を薬殺したという説もあるが、真相は分かっていない。 同館ボランティアガイドの加藤幹春さん(75)によると、小説や映画では行軍隊を指揮していた中隊長・神成文吉大尉と山口少佐の判断を巡る混乱が遭難の原因とされ、山口少佐は長年にわたり“悪役”とされてきた。一方で、加藤さんは山口少佐が行軍隊の指揮権を持っていたとみており、遭難の原因は風雪に対する経験不足などの悪条件が重なったため-と分析している。 この日は、山口さんと妻のえり子さん(72)が同館を訪れた。中野裕之館長は「行軍隊の大隊長だった山口少佐に関する資料は大変貴重なもので感謝している。多くの来館者に見てもらえるよう適切に展示したい」と述べた。 同館に隣接する幸畑陸軍墓地にある曽祖父の墓標に手を合わせた山口さん。なぜ遺品を今になって寄贈しようと思ったのかはっきりとした理由はないというが、心のどこかにあったのは戦後80年という節目だった。「自分が遺品を大切にしまい込んでいては何も意味がない。多くの人が実際に勲章や肖像画を間近で見て、曽祖父が生きていた時代を感じてほしい」と語った。 ◇ 八甲田雪中行軍 旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊が1902年1月に行った訓練。青森-三本木(現十和田市)間で冬季に山越えの進軍が可能か判断するため、田代までの1泊行軍を計画した。東郡筒井村(現青森市)の屯営を1月23日に出発したが、積雪や暴風雪に阻まれて遭難し、210人中193人が行軍中に死亡。捜索により17人が発見されたが、入院中に6人が死亡した。最終的な犠牲者は199人に上るという日本山岳史上最悪の惨事となった。